五月の午後、しだれ桜の川沿いに白いものが舞い始めた時、スパイスはちょうど新しい受信機の配線を繋ぎ終えたところだった。
工房の作業台に並んだ機械たちが、薄い蜃気楼のような熱を帯びて稼働している。スパイスは汗を拭い、開け放った窓から流れ込む五月の風を吸い込んだ。いつもとは違う、少し甘い風だった。
「……なんだ、この時期に綿毛か」
呟いた瞬間、窓ガラスを白い粒が叩き始めた。一粒、二粒と増えていくうちに、スパイスの指先が接続したばかりの端子の温度が、僅かに下がった気がした。川上の方から声が流れてくる。ケロミが歌っていた。それも、いつにも増して伸びやかに、高く、長く——。
まずい、とスパイスは思った。
三分と経たぬうちに、川沿い一帯が白い綿毛で覆われた。まるで季節を取り違えたかのような、五月の吹雪。玄関口の気象計測端末が静かに停止し、続いて作業台のアシスタント・モジュールが、一言も告げずに画面を暗くした。工房の電球だけは、なぜか最後まで粘ったが、やがてそれもふっと息を引き取るように消えた。
「……やってくれたな、ケロミ」
暗くなった工房の中で、スパイスはしばらく動かなかった。機械の代わりに炭のような静寂が工房を満たし、川の流れる音だけがかすかに届いた。電球の消えた後の薄闇に慣れるまでの間、スパイスは目を閉じて、ただ川の音を聞いていた。
声が来たのは、しばらく後のことだ。
「スパイスー! 機械、大丈夫ー?」
ケロミの声が、開いた窓から真っ直ぐ飛び込んでくる。スパイスは立ち上がり、分厚い眼鏡の奥の目を細めた。
「大丈夫じゃない。全部眠ってる。ログも途中で切れた」
「……ごめん。でも——」
ケロミは言葉を止めた。工房の前の道に積もった白い綿毛を、曇天の柔らかい光が照らしていた。綿毛の間から、小さな虫が一匹、音もなく向こうへ渡っていく。
「……でも、きれいでしょ」
スパイスは返事をしなかった。その代わり、工房の奥から古い手回し式のランタンを持ち出し、マッチで火を入れた。電球が戻るのは翌朝と知っていたからだ。
翌朝、機械たちはすべて目を覚ました。スパイスが計測器の最後の記録を確認すると、停止直前に通常の動作範囲を大きく外れた数値が一行だけ残っていた。何を検知しようとしていたのか、ログはそこで途切れており、永遠に分からない。ケロミはその日も歌った。ただし、少しだけ短く。
余白: 工房の電球だけは、他のどの機器よりも四十秒長く光を保っていた。その四十秒の間に何が起きたか、スパイスは記録を残さなかった。
【奇譚の核(しん)】
- 使用した固有現象:五月の雪(綿毛の反乱)— ケロミが歌いすぎたことで季節外れの綿毛吹雪が降り積もり、スパイスの工房の電子機器をすべて眠らせた
- 物語の隠されたテーマ:機械が沈黙した隙間にだけ、別の何かが顔を出す