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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

はじめての声

五月の水田は、まだ誰の声もしなかった。

コポーは龍神様の池のほとりに、足を水に半分つけたまま座っていた。生ぬるい泥の匂いが漂い、水面は朝の光を散らしてまぶしかった。葦の先端が風でわずかに揺れ、あとは静かだった。

「兄ちゃん」

ミニコーが都会の号外を抱えてやってきた。小さな足で紙の端を踏みながら広げる。

「日経が六万二千円超えたって。過去最高の数字、だって。都会では大騒ぎみたい」

コポーは水を見つめたまま、何も言わなかった。そっと、自分の喉の下あたりに手を当てた。

今年の春、コポーは一度もこの声を出していなかった。毎年この時季になると、喉の奥から自然と出てくるあの音が、今年はなぜかつっかえたまま出てこない。いつも目立ちたいと豪語しているくせに、いざ声を出す段になると喉が固まってしまう——それが自分という生き物の、情けない真実だった。

しだれ桜の向こうから、ソンチョーが「フェっフェっ」と笑いながら来た。古い暦を小脇に抱えている。

「どうした、口でも痛いか」

「……別に」

ソンチョーは石の上に腰かけ、暦を広げた。蛙始鳴、と書かれたところを親指でゆっくり撫でた。

「今日で七十二候の初候が終わる。カエルが今年初めて鳴く、最後の日じゃ。都会では数字の記録が更新されて沸いておるそうだが——この町で今日の最高値を更新するのは、お前の声だけじゃ、コポー」

「……聞かれたら恥ずかしい」

「そうじゃな」

ソンチョーはあっさりうなずき、懐から桜餅を取り出して一口かじった。

「恥ずかしいまま鳴くのがカエルというものじゃ。勇気があるから出るのではない。出ずにおられんから出るのじゃ」

田んぼの方から、五月の風が来た。

コポーは目を閉じた。喉の奥に固まっていたものが、少しずつほぐれるのがわかった。

「——クわッ」

自分でも驚くほど小さく、不格好な声だった。ミニコーが号外から顔を上げた。水面が、ほんのわずかに揺れた。

余白: その夜、スパイスの工房の受信機が、蛙鳴町の周波数帯に小さな新しい信号を捉えた。スパイスは出所を確認しないまま、手帳にただ一言「五月九日・初信号」と書き留めた。

【本日の雫】

  • 蛙始鳴(かわずはじめてなく):七十二候・第十九候(5月5日〜10日頃)。田や水辺でカエルが今年初めて鳴き出す、立夏の初候。2026年5月9日はその最終日にあたる。
  • 日経平均、史上最高値更新:5月7日、日経平均株価が62,833円を記録。取引時間中・終値ともに過去最高となった。