「べちゃ……」
五月の朝、池の端でコポーは折りかけた紙を一枚、静かに膝に落とした。空気が重い。梅雨の入り口を嗅ぎつけたような湿った南の風が龍神様の池を揺らし、岸の葦がやわらかくしなっている。
コポーが折っていたのは、紙飛行機だった。それもただの紙飛行機ではなく、中に一枚の絵を仕込んだやつ。白紙のノートを一枚破り、自分なりに精一杯描いたケロミそっくりの顔と、その下に「う、うた……すき」という五文字。文字はガタガタで、絵は腕が三本生えているような出来栄えだったが、コポーは夜明け前から三十枚以上かけてこの一枚を仕上げたのだった。
「折れねぇ……」
湿気にやられた紙はくたりと柔らかく、飛行機になることを拒んでいる。
「フェっ。」
しだれ桜の木陰から低い笑いが聞こえ、ソンチョーが古い竹椅子をきしませながら近づいてきた。手には今朝の新聞ではなく、薄くなった手帳を持っている。
「コポー、わしの古い友の話をしてもいいかの」
コポーは顔を上げた。返事をする代わりに、手の中のくたびれた紙を見せた。
「昔、わしが旅した遠い戦場での話じゃ。野戦病院で、腕に赤い十字を縫い付けた少年がおってな。傷ついた兵士に、子供が描いたただの花の絵を一枚ずつ渡して回っておった。上手くも下手くもない、不器用な絵じゃった。……でも受け取った兵士はみな、少しだけ泣いて、少しだけ笑ったのよ」
コポーは黙って、くたりとした自分の紙をもう一度見た。
そこへ、革靴の音。
「ゴーヤーの苦い匂いがすると思ったら……何なの、それ」
オヒサマが池の土手を通り過ぎようとして、立ち止まった。コポーが慌てて紙を丸めると、端っこがひとかけら、湿った風に飛んでオヒサマの足元に落ちた。
オヒサマは屈み、切れ端を拾い上げた。そこには「す」の一文字だけが残っている。
「……べつに、私宛でもないでしょ」
そう言って、切れ端をスカートのポケットにそっとしまって、何でもないような顔で歩き去った。
コポーは池の方を向いたまま、しばらく動けなかった。龍神様の池の水面が、静かに初夏の空を映していた。
余白: その夕方、龍神様の湖畔を通りかかったモッチーは、水際に転がった三十枚近くの丸めた紙のかたまりをひとつひとつ拾い上げ、誰にも言わず持ち帰った。開かなかった。
【本日の雫】
- 世界赤十字デー:5月8日は赤十字創設者アンリ・デュナンの誕生日。戦場で敵味方問わず傷ついた人を助けるという思想が起源となった。
- ゴーヤーの日:「ゴー(5)ヤー(8)」の語呂合わせ。5月はゴーヤーの出荷量が増え始める季節。苦味の中に独特の滋養がある。
- 紙飛行機の日:「GO(5)HIGH(8)」の語呂合わせ。高く飛ばなくても、想いはどこかに落ちる。