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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

蛙鳴町(あめいちょう)奇譚:影の告白

 五月の四日、空の様子がおかしかった。

 朝から霧が降りてきた。降りてくる、という表現は正確ではないかもしれない——池から立ち昇るのでなく、頭上より湿った影が、まるでデータパケットの洪水がネットワークを静かに溢れさせるように、音も予兆もなく滑り落ちてきた。逆さ霧だ、と大人たちは言った。

 コポーがその帳に包まれたのは、川沿いの石橋にさしかかった瞬間のことであった。

 色が消えた。しだれ桜の薄紅も、池の水の緑も、みな等しく古いモノクロ写真のそれに変わった。コポーは足を止め、きょとんと自分の手を眺めた。灰色の手が、灰色の欄干をなぞっている。

 そのとき、石畳の影が揺れた。

 風はなかった。なのに影は、独自の意志を持つかのようにしきりと形を変えた。やがてそれは輪郭を崩し、コポーの足元へと広がりながら、何かを描き始めた。練習した告白の言葉を飲み込んだ朝の後ろ姿。ケロミの歌声に目を閉じて堪えきれなくなり、逃げ出した夜の記憶。池の畔でオヒサマに向けて「好きだ」と三百回書きつけては、消した紙の山。

「やめろ……っ!」

 コポーは影を踏みにじった。しかし影は、スパイスが設計したどんなフォールトトレラント機構よりも頑強に、踏み荒らされた瞬間だけ平らに伏せ、すぐさま元の形を取り戻す。石橋の欄干に凭れていたソンチョーが、煙草でも吸うかのような静かな顔でコポーを見ていた。

「逆さ霧か。久しく来ていなかったのう」

「ソンチョー……! 影が……僕の中を全部、晒しやがって……」

 コポーの声には、怒りとも羞恥とも分類できない振動があった。石畳にはまだ秘密が映り続けている。ソンチョーは静かに立ち上がり、橋の中央に歩み出た。

「よし。今日はお前の影を、龍神様に貸しておきなさい」

 それは儀式の言葉であった。ソンチョーが欄干の龍神像の鼻先にそっと指先を当てると、コポーの影は石橋の板から離れ、水面へと滑るように溶けていった。

 影を失ったコポーは、その日一日、怒ることができなかった。声を荒らげようとすると言葉が霧散し、涙ぐもうとすると感情がさらさらと砂のように散けていった。ただ空を見上げた。五月の水色が、ゆっくりと傾いていった。

 夕暮れになって影は戻ってきた。

 しかしそれ以来、コポーは自分の影がほんのすこし短くなったと感じている。龍神様が何かを受け取ったのか。それとも、秘密の一部が影に戻り損なっただけなのか。コポーは誰にも聞けないまま、夜が来るたびに石橋へ行き、月明かりの下でひそかに影の丈を確かめる。

余白: 石畳には、今も雨上がりに限り、誰かの告白を飲み込んだ夜の影が薄く浮かびあがる。コポーのものかどうかは、永遠に分からない。


【奇譚の核(しん)】

  • 使用した固有現象:逆さ霧(さかさぎり)、影の譲渡(龍神様との契約儀式)
  • 物語の隠されたテーマ:秘密は消せない。ただ、形を変えるだけ