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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

八十八夜の雫

朝露がしだれ桜の葉先に溜まり、池の面に落ちた。空の西にはまだ満月が白く浮かんでいる——北のどこかの人たちが「フラワームーン」と呼ぶ、五月の丸い月だ。東の稜線は橙色に染まり始めているのに、月はまるで居残りを決め込んだかのように、黙って蛙鳴町を見下ろしていた。

「休日も早いんじゃな、コポー」

駅前広場のベンチに、ソンチョーが茶碗を両手で包んでいた。湯気が静かに立ちのぼり、青草と土の入り混じったような、初めて嗅ぐ季節の匂いがした。

「……なんか、眠れなかっただけだ」

コポーが口の中で言い訳を丸めながら腰を下ろすと、ソンチョーは無言でもう一つの茶碗を差し出した。口に含むと、甘みと渋みが順番にやってきて、最後に静かな苦みが残った。

「春から数えて八十八日目の朝じゃ。今日摘んだ茶葉は一年で一番柔らかい。八十八という数は、米という字に見えるだろう——長い冬と、少しずつ積み上げてきた日々が、ようやく今朝、一番いい形で開く。急いで開かせようとしたものは、こんな味にはならんのじゃ」

上流の方から、重い足音が近づいてきた。モッチーだった。泥のついた大きな手が、小さな籠の縁を掴んでいる。

「よう。二人とも早いな」

「そっちもな」

「去年の秋に植えた苗木が、今朝ちょうど芽を出した。見に行ってたんだ」

モッチーが籠から細い枝を一本取り出した。折れそうなほど頼りないのに、その先の葉は艶やかで、朝の光の中でやわらかく震えていた。

コポーは茶碗の中を覗いた。西空から差し込んだ月光と、東から滲み出した朝の光が、液体の表面に重なり合って揺れていた。

「……俺も、最近ずっと練習してること、ある」

誰にも言えずにいた言葉が、ぽつりと口からこぼれた。

ソンチョーは「言い切るな」とは言わなかった。ただ「フェっフェっ」と笑い、茶碗に口をつけた。

モッチーは細い苗木の枝を籠に戻し、何も言わずにコポーの隣に座った。三人の沈黙の上で、西の満月はそのまま、もう少しだけそこにいた。

余白: コポーがこの朝、胸の中でそっと数えた「八十八」という数字の意味を、誰かに話す日は、まだもう少し先になりそうだった。

【本日の雫】

  • 八十八夜:立春から数えて88日目。2026年は5月2日がこれにあたる。この日に摘んだ新茶は特に上質で、飲むと長生きするという言い伝えがある。「八十八」の字を分解すると「米」に見えることから、農と茶の節目として古くから重んじられてきた。
  • フラワームーン(満月):2026年5月2日の午前2時23分に満月を迎えた。北米先住民の暦では5月の満月を「フラワームーン」と呼ぶ。夜明け前に西空へ沈もうとせず残る月の光景は、この季節ならではのもの。