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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

書けなかった音

記録の蔵の窓から、池の光が斜めに差し込んでいた。五月に変わる前の最後の昼下がり。空気はぬるく、どこかに湿り気を含んでいた。

ケロミは楽譜の余白に鉛筆を走らせながら、何度も同じ小節で止まっていた。消しゴムをかける。また書く。机の上には消しカスが小さな丘になっていた。十年後も残る歌を書こうと決めたのは先週だったが、その「書く」という行為が今日はやけに手を縛っていた。

扉が開いて、コポーが頭だけ突っ込んできた。 「ここ、入っていい? 広場の連中、なんか鳴らしてて。うるさい」 「どうぞ」

コポーは棚の端に腰を下ろし、拾ってきたらしい小枝をくるくるいじりはじめた。しばらくして、その指が静かにリズムを刻んでいることにケロミは気づいた。三拍と、半拍分の間。変な間隔だった。

でも、その間隔のどこかに、ケロミがずっと探していた音の隙間があった。

「……ねえ、それ、続けてて」 「は? 俺、何もしてないけど」

それでもコポーの指は止まらなかった。

ケロミは鉛筆を置いて、口を開いた。楽譜には書いていない音が出てきた。蔵の壁に並んだ古い本の背表紙が、午後の光の中でゆれているような声だった。池の匂いが、少しだけ濃くなった気がした。

「フェっフェっ」

扉の外から、ソンチョーの笑いが聞こえた。覗いていたらしい。 「書いた音より、返事した音の方が長生きする。そういうもんじゃ」

夕方、ケロミは今日の音を楽譜に写そうとして、止まった。五線の上に置いた途端、何かが死ぬ気がした。

コポーはもう帰っていて、机の上には消しゴムのカスだけが残っていた。

余白: 翌朝、コポーは「あのとき俺、何か弾いてたっけ」と首をかしげたが、その指はまた、おなじリズムを刻んでいた。


【本日の雫】

  • 国際ジャズデー(4月30日): ユネスコが制定した記念日。ジャズの即興演奏(インプロビゼーション)が育む文化的対話や共生の精神を讃え、世界各地でコンサートやセッションが行われる。
  • 図書館記念日: 1950年4月30日に図書館法が公布されたことを記念して日本図書館協会が制定。記録し、残し、届けることの意義を問い直す日。