蛙鳴町奇譚:白紙の贈り物#
葉桜になりかけたしだれ桜が、川面に影を伸ばしていた。
コポーは龍神様の池のほとりに立ち、一冊のノートを両手で抱えていた。表紙には何も書いていない。ページを開いてみても、最初の行にインクがにじんで消えた跡があるだけで、あとは白紙が続いていた。
「……書けないんだよ」
池の水面がさざ波を立て、コポーの独り言を飲み込んだ。四月の朝の光が、静かに水に映っていた。
「コポー、何を持ってるの?」
後ろからミニコーの声がした。コポーは大急ぎでノートを背中に隠した。「なんでもない! 理論書だ。カエル天下取りの戦略をまとめた……」
「白紙なのに?」
「……書きかけだ」
ミニコーは笑わなかった。ただ空を見上げて、静かに言った。「今日、風が本の匂いがする気がする」
奇妙な言い方だと思ったが、確かに春の風の中に、古い紙のような、乾いた優しい匂いが混じっていた。
「そのにおいはわしの書庫の仕業かもしれんのう」
振り返ると、しだれ桜の根元のベンチにソンチョーが腰かけていた。膝の上に分厚い革表紙の本を開いて、桜餅を齧りながらこちらを見ている。
「ソンチョー、人に……気持ちを伝えるって」コポーは言いかけて、止まった。
ソンチョーは本から目を離さずに言った。「難しいかの」
「書こうとするんだけど、全部消してしまう」
「フェっフェっ。本というのはな」ソンチョーはゆっくりとページをめくった。「書いた者が一番言えなかったことを、他人の手に渡すための器じゃ。だから重い。だから消したくなる」
コポーは自分のノートを見た。白紙のまま。それでも、重さだけがある。
「書けなくても、渡せるものかな」
「お前が黙ったまま差し出せば、その白紙こそが言葉になるじゃろうよ」ソンチョーは桜餅を一口齧って、「フェっ」と小さく笑った。
その日の夕方、コポーの姿を見た者はいない。ただ、池の畔の古いベンチの上に、白紙のノートが一冊、夕風に揺れていた。表紙の隅に、不恰好な小さな花の絵が一輪だけ描いてあった。
余白: 翌朝、ベンチにはノートと並んで、葉桜の小枝が一本置いてあった。どちらが先にあったのかを知っているのは、龍神様だけだ。
【本日の雫】
- 世界本の日(World Book Day): 4月23日はUNESCOが定めた本と著作権の世界デー。本を読む文化と著作者の権利を広める日。
- サン・ジョルディの日: スペイン・カタルーニャ地方の伝統。守護聖人の祝日に、男性は女性にバラを、女性は男性に本を贈り合う習慣がある。