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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

春風の二輪

龍神様の池の畔に、錆びた自転車が一台、春の光を反射して立てかけてあった。

「スパイスに直してもらったやつだ。今日こそ乗りこなす」

コポーはその二輪に手をかけ、胸を張った。昨日転び、一昨日も転び、三日前はまだ押して歩いていた。「颯爽と乗りこなせば女の子にキャーと言われるはずだ」という動機は、三日間ぶれていない。

踏み込んだ瞬間、自転車は予想通りにぐらりと傾いた。コポーは全身でバランスを取りながら、それでもペダルを漕いだ。土手沿いの草が風に揺れ、池の面に小さな波紋がいくつも広がった。

「コポー兄ちゃん、まだ止まり方を知らないの?」

土手の上からミニコーが声をかけた。

「……知ってる。知ってるが、まだ試してない!」

自転車は川沿いの道へとよたよた入り込んだ。桜の散り花びらが舞い、一枚がコポーの鼻の頭にぺたりと貼りついた。四月の風が耳元を通り過ぎた。

そのとき、何かが変わった。

池の光が銀色に砕けて見えた。草の青い匂いが鼻の奥まで通り抜けた。ミニコーの笑い声が、遠くから弾けるように届いた。あの桜並木の先を、あの踏切の向こうを——自分はもっと遠くまで走っていけるんじゃないか。そんな気が、一瞬だけした。

自転車は石垣に激突して止まった。コポーは大の字になって草の上に倒れ、しばらく動かなかった。

ミニコーが走り寄り、隣に腰を下ろした。

「楽しかった?」

コポーはしばらく空を見てから、鼻の頭の花びらをぺっと吹いた。

「……世界が動いてた」

ミニコーはその言葉を静かに受け取り、同じ空を見上げた。

余白: 翌朝、スパイスの工房の前に「ブレーキの修理費」と書かれた小石が置いてあった。中身は空だったが、ちゃんと包み紙でくるんであった。


【本日の雫】

  • 自転車の日(4月19日): 日本では4月19日を自転車の普及・安全利用を促進する記念日としている。また1943年4月19日、スイスの化学者アルベルト・ホフマンがLSDを初めて意図的に服用し、その帰り道に自転車で「世界がまったく違って見えた」と記録した——「バイシクル・デー」として世界で知られる日でもある。