南の空気が、朝から少しだけ違う匂いをしていた。
池の水面がざわめいている。風はないのに、龍神様の祠のしめ縄が揺れていた。コポーは縁石に腰かけて、その揺れを眺めながら腕を組んだ。カッコいいポーズをとるつもりだったが、なんとなくそういう気分になれなかった。
「スパイス、なんかの装置が鳴ってたぞ」
工房の前を通りかかった時、細い警報音が聞こえた気がした。スパイスは振り返りもせず、水波センサーの画面を見つめたまま答えた。
「遠い海が動いてる。中心気圧、九百五ヘクトパスカル」
数字の意味はよくわからなかったが、スパイスの声が、いつもより低かった。
しだれ桜の根元で、ソンチョーが古びた気象手帖をめくっていた。茶色に日焼けした紙に、細かい数字が並んでいる。
「シンラコウというのかい、今年のそれは」
「ああ。四月にこの規模は、記録を見る限り二例目だ」
ソンチョーは手帖を閉じ、遠い南の方角を見た。
「誰も見ていない海の底で、ずっと育っておったんじゃ。温かい海に潜って、誰にも気づかれず、ただ渦を巻いて。自分が何者かを証明しようとするわけでもなく——ただ大きくなった」
コポーは黙って池の水面を見た。さっきから、波紋が消えては生まれを繰り返している。
「……格好いいな、それ」
「フェっフェっ」
ソンチョーが目を細めた。
「誰かに見せるためではない力というのは、手が付けられんぞ。龍神様も、今頃その子を少し困った顔で眺めておるかもしれんな」
池の水が、また揺れた。春の光が砕けて、泡のように底へ消えた。コポーは立ち上がり、特に理由のないまま、少し背筋を伸ばした。
余白: その夜、スパイスの工房の灯りはいつまでも消えなかった。センサーの画面には、南の海の波が静かに途切れなく届き続けていた。
【本日の雫】
- 台風4号「シンラコウ」:2026年4月に発生した猛烈な台風。中心気圧905hPa・最大風速60m/sに達し、4月に猛烈な勢力へ発達するのは2021年台風2号以来史上2例目。マリアナ諸島から小笠原諸島へ北上中。