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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

橙色、転がる

四月の午後、池の面が橙色に染まりはじめる時間になると、コポーは広場の隅で一個のオレンジを両手に抱えて立ち尽くしていた。

「渡すだけだ。ただ渡す。それだけだ。それだけなんだ……」

自分に言い聞かせるたびに、声が細くなっていく。池の匂いが春の風に混じって鼻をくすぐった。隣でミニコーが耳をぴくりとさせた。

「何回練習した?」 「二百五十回」 「なのに今、立ってる」 「……口を開いたら声が出なくなった」

ミニコーは何も言わなかった。春の光が石畳に落ちて、オレンジの皮にそのまま反射して、コポーの手のひらを橙色に染めていた。

そこへ、龍神様の祠の前の小道をオヒサマが歩いてきた。薄い橙色の帯をゆらして、春の光の中を歩いてくるその姿に、コポーの足が自然と動いた——と思った次の瞬間、石畳の端に足をとられて滑った。

オレンジが宙を飛んだ。コロコロと転がって、オヒサマの足元でぴたりと止まる。

オヒサマは屈んでそれを拾い、地面に伸びたコポーをしばらく眺めた。

「……供え物?」 「ち、違う……! いや、その……龍神様への……」

オヒサマはオレンジを両手で包んで、少し考えた。「期待しないでおいてあげる」とだけ言って、橙色の帯をゆらして立ち去った。

その後ろ姿がしだれ桜の向こうに消えてから、ソンチョーの声がした。

「フェっフェっ。橙というのはのう、転がってもちゃんと橙のままじゃ。手放した分だけ届く色というものよ」

コポーは泥の中で顔を伏せたまま、池の水面を眺めた。橙色の光が揺れて、また揺れた。春の池は、ものすごく正直だった。

余白: その夜、オヒサマの部屋の窓辺には、剥かれないままのオレンジが一個、橙色の灯りのようにそっと置かれていた。


【本日の雫】

  • オレンジデー:4月14日。バレンタインデー(2月14日)・ホワイトデー(3月14日)に続く「愛の記念日」として、愛媛県の柑橘農家が1994年に発案。オレンジまたはオレンジ色の贈り物を贈って、二人の愛情を深める日とされている。