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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

橋を渡ったら、振り返るな

川の石橋に、朝の光がまっすぐ射し込んでいた。

龍神様の彫刻が刻まれた欄干が、春の空気を受けてぬるく光っていた。ミニコーは橋のたもとで立ち止まり、一度だけ深呼吸をした。

「……行くよ、兄ちゃん」

「おう」

コポーは橋の向こう側で、腕を組んで待っていた。なぜか橋を渡れなかった。正確には、渡ってはいけなかった。

ソンチョーが前の晩に言っていた。「橋を渡り終えるまで、絶対に振り返るな。振り返ったら、授かったものが戻ってしまう」。龍神様の橋を渡る者は前だけを向いて歩かなければならない、という古い慣わしがあった。授かった「何か」を両手でしっかり持って、前だけを向いて歩き切ること。

問題は、コポーの方だった。

ミニコーが一歩ずつ橋を渡り始めると、コポーは妙に落ち着かなくなった。小さな背中が揺れるたびに、何か言いたくなる。「ちゃんと前向いてるか」「転ぶなよ」「もう少しだ」。

けれど全部、飲み込んだ。

声をかけたら、振り返るかもしれない。

ミニコーが橋の中ほどに差し掛かった時、風が吹いた。桜はもうほとんど散っていたが、川の水面がさざなみを立てて光った。コポーは息を詰めた。

ミニコーには聞こえていた。兄が黙っていることの重さが、橋板を通じて伝わってくるような気がした。振り返りたかった。ただ、兄の顔が見たかった。

でも、足を止めなかった。

コポーが両手を広げて待っているのが見えた。ミニコーは橋を渡り終え、最後の一歩を踏み出した。

「……来た」

コポーが頭に手を乗せた。乱暴でも、優しくもない、ただそこにある手だった。

「なんかもらえたか」

ミニコーは少し考えてから、こくりと頷いた。

「うん。……兄ちゃんが黙ってたこと、もらった」

コポーは何も言わなかった。ただ、少しだけ耳の端が赤くなった。

余白: その日の午後、ソンチョーが「どうじゃったか」と聞くと、コポーは「あいつが転ばなかっただけだ」と答えた。ソンチョーは「フェっフェっ」と笑い、淹れたての香り高い茶を二人の前に置いた。


【本日の雫】

  • 十三参り:数え年13歳の子どもが知恵と福徳を授かるため、虚空蔵菩薩を祀る社寺に詣でる日本の伝統行事。帰路、橋を渡り終えるまで振り返ってはならないという作法がある。振り返ると授かった知恵が戻ってしまうと言い伝えられており、関西を中心に4月13日前後に行われる。
  • 喫茶店の日:1888年(明治21年)4月13日、東京・上野黒門町に日本初の本格的な喫茶店「可否茶館(かひちゃかん)」が開店した。誰かと温かいものを囲む場所の、始まりの日。