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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

帰り道の光

龍神様の池が、春の朝の霞に沈んでいた。

水面はほとんど動かず、空の白みを映したまま、ただ静かに揺れていた。その縁に、コポーはしゃがみ込んで、もう随分と長い間、何かを眺めていた。

「……帰ってきたんだな」

独り言にしては、少し声が大きかった。

スパイスが夜通しかけて組み立てたという小さな受信装置が、広場の柱に括りつけられたまま、朝もやの中でぽつんと光っている。昨夜、都会の電波に乗って届いたニュースを、スパイスは「月まで行った奴らが、海に落ちてきたらしい」とだけ言い残して眠りについた。

コポーには、それがなぜか他人事に思えなかった。

「すごいよな。あんなに遠くまで行って、それでもちゃんと戻ってくるんだもん」

誰に言うでもなく呟いたとき、背後で芝の踏みしめる音がした。

「遠くに行くのは、誰でもできる」

振り返ると、ソンチョーが祠の石段に腰を落ち着けていた。古いひざ掛けが肩にかかり、皺の深い目がコポーをやんわりと見ていた。

「難しいのは、帰ってくることじゃ。出発した場所に戻るには、自分が変わっていなければならん。変わっていなければ、帰り道は見つからん」

コポーは池に視線を戻した。

水の底で、朝の光がゆっくりと膨らんでいた。龍神様の鱗のように、金色の筋が揺れている。

「……オレ、どこかに行けるかな」

声が思いのほか小さくなった。コポーは自分の指先を見た。池の泥が少しだけついている。

「行けるとも」ソンチョーは「フェっフェっ」と笑った。「お前はもう、行きたい場所がある。それが一番の準備じゃ」

風が一度、池の面を渡った。霞が少し薄れて、向こう岸の草が、はっきりと緑の色を取り戻した。

コポーは立ち上がり、受信装置の光をしばらく見上げてから、泥のついた手をズボンで拭った。

余白: その日の夕方、コポーはスパイスの工房をこっそり覗いて、「あの装置、月に向けることもできるか」と聞いた。スパイスは答えなかったが、翌朝、装置の角度が少しだけ変わっていた。


【本日の雫】

  • アルテミスII 有人月周回ミッション完了:NASAの宇宙船「オリオン」が4月10日(米東部時間)、カリフォルニア州沖に着水し、地球に帰還した。半世紀以上ぶりとなる有人飛行での月周回ミッションが完了した。宇宙飛行士4名が搭乗していた。
  • 復活祭(イースター)に伴う停戦宣言:正教会の復活祭にあわせ、ロシアが4月11〜12日の停戦を宣言。「帰ってくること」「やり直すこと」という春の象徴的な意味合いを町の物語に重ねた。