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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

機巧(からくり)の檻

龍神様の池を囲む樹々は、滴るような深い翠を湛えて、一向に動きそうもない。そこへ春の柔らかな日矢が差し込むと、水面(みなも)は忽ち乱反射を起し、周囲の古びた石碑へ、複雑怪奇な幾何学模様を書き連ねるのであった。 「……成った。これこそが、私事(わたくしごと)の防壁と利便とを繋ぐ、究極の均衡(つりあい)というものだ」  スパイスと呼称される男が、恭しく掲げたのは、半透明の液晶を嵌め込んだ奇怪な鉄兜(かぶと)であった。その表面には、絶えず呪詛に似た暗号の列が走り、周囲の喧騒を一切合切、冷酷に遮断している。 「スパイス、それではお前の面体(めんてい)が拝めないではないか。折角の美男が台無しだよ」  コポーが鉄兜を軽く叩くと、その内部の拡声器から、変調された無機質な機械音が、毒々しく響き渡った。 「無知だな、コポー。都会という人込みにあっては、『己』を如何に防衛するかが喫緊の課題なのだ。貌(かお)も、声も、果ては一挙手一投足に至るまでの履歴もな。この『個体防壁(パーソナル・シールド)』さえあれば、何人(なにびと)たりとも私の思惟を覗き見ることは叶わぬ」  スパイスは鼻を高くして、満足げに胸を張ってみせた。が、いかんせん視界が針の穴ほどに狭まっていたのが災いした。彼は足元の石に躓くと、無残にも泥の中へ転倒したのである。鉄兜が岩に当たり、ガシャリと不吉な音を立てた。 「おやおや。己を隠蔽することに汲々として、足元が見えなくなっては世話がないわい」  ソンチョーが、長い杖の先で、スパイスの鉄兜の目庇(まびさし)を、そっと押し上げた。その隙間から、鮮やかな春の陽光が、不意に滑り込む。スパイスは眩しさに、思わず眼を細めた。 「ソンチョー……。しかし、情報は死守せねばならんのです」 「フェッフェッ。お主の言う『情報』とやらは、この町を吹き抜ける風よりも重宝なものかえ? 隠し事をするのは勝手じゃが、自分の心まで閉じ込めてしまえば、誰も助けの手を貸すことはできぬぞ」  ソンチョーは、傍らで黙然としていたマスクメンを手招きした。彼はいつものように、布切れ一枚で顔を覆い隠していたが、泥に塗れたスパイスへ、無言のまま肉厚な手を差し伸べている。 「この男を見よ。隠しておっても、その手の温もりまでは隠せぬものよ。守るべきは『計数(データ)』ではなく、その手の届く範疇にある『繋がり』ではあるまいか」  スパイスは、差し出された厚い手袋の手を、縋るようにぎゅっと握りしめた。鉄兜の隙間から鼻を突いた土の匂いと、仲間たちの確かな気配。それは、如何なる精密な防禦法(セキュリティ)を以てしても拒むことのできぬ、蛙鳴町の「無防備な」慈悲であった。

余白: 結局、スパイスの鉄兜は、午後にはコポーの「秘密基地の潜水艇ごっこ」の玩具として、無残に供されていたのである。


【本日の雫】

  • 改正個人情報保護法の施行(記念日に関連): データの保護と、人間同士の信頼関係の対比。スパイスの極端な機巧を通じてこれを戯画化した。
  • メートル法公布記念日: 「物差し」を変えること。都会の基準(数値的な保護)と、町の基準(心の機微)をソンチョーが説き、価値観の転換を示唆した。