龍神様の池の畔に、オヒサマの雛壇が静かに広がっていた。
七段の朱塗りの棚、金屏風に寄りかかったお内裏様とお雛様。桃の枝を飾った花瓶の横で、オヒサマが竹ぼうきで花びら一枚を払いながら眉をひそめた。
「コポー、触らないで」
「触ってないって! ちょっと近づいただけ」
コポーが後退りした拍子に、三人官女の一体が少し傾いた。オヒサマのため息が春の空気に溶けた。
「……この子たちはね、一年に一度しか外に出られないの。ちゃんと見ていてあげないと」
コポーは何も言わず、少し離れた岩の上に座った。雛人形たちの小さな顔が、夕暮れの光を受けて静かに光っていた。
日が沈むにつれ、池の向こうの空が異変を見せ始めた。満月が、じわじわと端から影に飲まれていく。
「……月が赤くなってる」
コポーが空を見上げた声に、オヒサマも顔を上げた。暗赤色の月が池に映り、雛壇の金屏風をほんのりと染めた。
ソンチョーが桜餅を片手に池のほとりへやってきた。
「龍神様のお召し物の色じゃのう、今夜の月は。言い伝えによれば、赤い月の夜だけ、雛人形たちは水面で踊るという」
オヒサマが雛壇を見た。月の赤い光の中で、お雛様の金の笄がかすかに揺れたような気がした。
「……ありえない」
「そうかのう。一年に一度しか外に出られない子たちが、特別な夜に踊りたくなるのは——自然なことではないかのう。フェっフェっ」
コポーがこっそりオヒサマの隣に座り直した。二匹は黙ったまま、赤い月と雛壇を見ていた。
余白: 翌朝、雛壇の前に小さな蛙の足跡が一対だけあった。オヒサマは何も言わなかったが、片づけを少しだけ後回しにした。
【本日の雫】
- ひな祭り(桃の節句・3月3日): 女の子の健やかな成長と幸せを祈る伝統行事。七段飾りの雛人形、桃の花、菱餅、ひなあられなどで祝われる。
- 皆既月食(2026年3月3日): 日本全国で皆既月食が観測できる夜。月が地球の影に完全に入り込み、赤銅色に染まる「赤い月」が見られる天文現象。