メインコンテンツへスキップ
  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

海の底の太鼓

三月の朝霧がまだ龍神様の湖を覆っていた頃、スパイスは湖面を覗き込んで眉をひそめた。

「……揺れている」

彼の水波センサーの針が、かすかに、しかし規則正しく振れていた。遠い海の底から伝わってくる微振動——まるで誰かが巨大な太鼓を打ち続けているような波紋が、霧の奥から静かに広がっていた。

「スパイスー! 今日は行進しようぜ!」

コポーが虫取り網をバトン代わりに振り回しながら現れた。どこかで太鼓の音を聞いたと言い張っているが、実際には自分で口ずさんでいるだけだった。「マーチだマーチ! 俺が先頭で!」

「……先頭に立てるほどの太鼓は、優しくないぞ」

スパイスが静かに呟いたが、コポーには届かなかった。

ソンチョーがベンチからゆっくり立ち上がり、霧の向こうへ目を向けた。

「遠い海で、また誰かが扉を閉めようとしておる。何十年も前にも似たような振動を感じた——あの時は、灰色の雨が降った」

老いた目が、しばらく動かなかった。コポーの網が、静かに止まった。

「……俺、笛の方がよかったかな。うるさくなくて」

誰に言うでもない呟きに、スパイスが珍しく短く笑った。

霧はまだ湖を覆っていたが、三匹がそこに並んでいる間だけは、その色がわずかに薄くなったような気がした。

余白: その夜、スパイスの水波センサーが「測定範囲外」を示して止まった。翌朝、画面に手書きの付箋が一枚——「平和」と書いてあった。


【本日の雫】

  • ビキニ・デー: 1954年3月1日、アメリカが太平洋・ビキニ環礁で水爆実験を実施。日本の漁船・第五福竜丸が被曝し、核廃絶・平和運動の象徴的な記念日。
  • マーチの日(行進曲の日): 「March(三月)」と「March(行進曲)」が同じ言葉であることにちなむ記念日。
  • ホルムズ海峡封鎖: イランによる封鎖のニュースが届き、エネルギー輸送を巡る国際的な緊張が高まった。