蛙鳴町について # 町外れの古い踏切と、しだれ桜が川面に枝を伸ばす風景。 蛙鳴町(あめいちょう)は、どこにでもありそうで、どこにもない小さな町です。 日々の出来事が、ここでは少しだけ奇妙な色に染まります。
四月の午後、池の面が橙色に染まりはじめる時間になると、コポーは広場の隅で一個のオレンジを両手に抱えて立ち尽くしていた。
「渡すだけだ。ただ渡す。それだけだ。それだけなんだ……」
川の石橋に、朝の光がまっすぐ射し込んでいた。
龍神様の彫刻が刻まれた欄干が、春の空気を受けてぬるく光っていた。ミニコーは橋のたもとで立ち止まり、一度だけ深呼吸をした。
龍神様の池が、春の朝の霞に沈んでいた。
水面はほとんど動かず、空の白みを映したまま、ただ静かに揺れていた。その縁に、コポーはしゃがみ込んで、もう随分と長い間、何かを眺めていた。
龍神様の池を囲む樹々は、滴るような深い翠を湛えて、一向に動きそうもない。そこへ春の柔らかな日矢が差し込むと、水面(みなも)は忽ち乱反射を起し、周囲の古びた石碑へ、複雑怪奇な幾何学模様を書き連ねるのであった。 「……成った。これこそが、私事(わたくしごと)の防壁と利便とを繋ぐ、究極の均衡(つりあい)というものだ」 スパイスと呼称される男が、恭しく掲げたのは、半透明の液晶を嵌め込んだ奇怪な鉄兜(かぶと)であった。その表面には、絶えず呪詛に似た暗号の列が走り、周囲の喧騒を一切合切、冷酷に遮断している。 「スパイス、それではお前の面体(めんてい)が拝めないではないか。折角の美男が台無しだよ」 コポーが鉄兜を軽く叩くと、その内部の拡声器から、変調された無機質な機械音が、毒々しく響き渡った。 「無知だな、コポー。都会という人込みにあっては、『己』を如何に防衛するかが喫緊の課題なのだ。貌(かお)も、声も、果ては一挙手一投足に至るまでの履歴もな。この『個体防壁(パーソナル・シールド)』さえあれば、何人(なにびと)たりとも私の思惟を覗き見ることは叶わぬ」 スパイスは鼻を高くして、満足げに胸を張ってみせた。が、いかんせん視界が針の穴ほどに狭まっていたのが災いした。彼は足元の石に躓くと、無残にも泥の中へ転倒したのである。鉄兜が岩に当たり、ガシャリと不吉な音を立てた。 「おやおや。己を隠蔽することに汲々として、足元が見えなくなっては世話がないわい」 ソンチョーが、長い杖の先で、スパイスの鉄兜の目庇(まびさし)を、そっと押し上げた。その隙間から、鮮やかな春の陽光が、不意に滑り込む。スパイスは眩しさに、思わず眼を細めた。 「ソンチョー……。しかし、情報は死守せねばならんのです」 「フェッフェッ。お主の言う『情報』とやらは、この町を吹き抜ける風よりも重宝なものかえ? 隠し事をするのは勝手じゃが、自分の心まで閉じ込めてしまえば、誰も助けの手を貸すことはできぬぞ」 ソンチョーは、傍らで黙然としていたマスクメンを手招きした。彼はいつものように、布切れ一枚で顔を覆い隠していたが、泥に塗れたスパイスへ、無言のまま肉厚な手を差し伸べている。 「この男を見よ。隠しておっても、その手の温もりまでは隠せぬものよ。守るべきは『計数(データ)』ではなく、その手の届く範疇にある『繋がり』ではあるまいか」 スパイスは、差し出された厚い手袋の手を、縋るようにぎゅっと握りしめた。鉄兜の隙間から鼻を突いた土の匂いと、仲間たちの確かな気配。それは、如何なる精密な防禦法(セキュリティ)を以てしても拒むことのできぬ、蛙鳴町の「無防備な」慈悲であった。
踏切の警報機が、のどかな空気に規則正しいリズムを刻んでいる。 線路脇の土手では、菜の花が競うように黄色い火を灯し、風が吹くたびに甘い香りが鼻腔をくすぐった。