カエル山の中腹から吹き下ろす山風が、青々と茂る草むらを波のように揺らしている。夏の陽射しを浴びて、湿った土と青葉の匂いが混ざり合い、むっと立ち上っていた。
梅雨が明けたばかりの蛙鳴町は、しだれ桜の川沿いが眩しいほどの青葉に覆われていた。水銀灯の下の空気は早くも夏の熱を帯び、龍神様の池からは涼やかな風が吹き抜けていく。
七月の田んぼは、熱と泥と青い匂いに満ちていた。
「コポー、もう一束だ」
モッチーの声は、いつも命令より確認に近い。コポーは「う……」と唸りながら泥に踏み込み、早苗の束を受け取った。ズブリ、と足首まで沈んだ。思っていた以上に深かった。
夕暮れ時の池の畔に、コポーは真剣な顔でノートを開いていた。
「よし……18時。ブラジルvsモロッコ。絶対に見る」
ペンで二重丸を書き込み、テレビの前の座布団に腰を下ろした。蛙鳴町にまで届くはずのない歓声を、四角い画面の向こうに見届けるための、完璧な計画だった。
蛙鳴町奇譚:水のたより # 梅雨の前夜のような空が、龍神様の湖の上に低く垂れ込めていた。水面は灰青く、凪いでいる。
六月の最初の朝、蛙鳴町の広場には重たい雲が腹を引きずるようにして低くたれこめていた。
コポーは昨晩拾い集めた枯れ枝を二本、広場のはずれに立ててゴールを作り、そこめがけてひたすらボールを蹴り続けていた。足の甲に感触が残るたびに、遠い北米の青々とした芝生を思い浮かべた——あと十日で、世界中の誰かがあの場所に立つ。
龍神様の池のほとりは、朝から誰かの呼吸みたいな静けさに包まれていた。
コポーは竹ぼうきを抱えたまま、水面を見つめた。いつもなら空の青を映すはずが、今日は灰色がかった緑がそのまま沈んでいる。池の奥で睡蓮の葉が重そうに揺れ、遠い南の海で大きな渦が育っているのを、龍神様の水はもう知っているのかもしれない。
カエル山の中腹から眺めると、蛙鳴町の屋根がちょうど掌に収まる高さになる。
コポーは三度目の踏み出しで、また足が止まった。
頂上の尖り石まであと三十歩。石は雨に磨かれて丸く、蛙鳴町で一番空に近い場所だとコポーが一人で決めていた。何か大事なことを決める前に必ずここに来るのだが、急な斜面に足がすくんで、今日は朝からもう三度引き返していた。
龍神様の湖の畔、朝靄がまだ水面に溶けかけている頃、モッチーは岸の石の上にしゃがんでいた。
大きな手を、水面すれすれに広げていた。波紋を立てないよう、息をひそめて。
梅雨の手前の風が、龍神様の池の面をゆっくりと横切っていった。
コポーは石橋の欄干に肘をのせたまま、川沿いのしだれ桜を見ていた。花はとっくに散り、今は青い葉が枝をことごとく埋めて、川面に翳を落としている。一週間前より確かに濃い。二週間前と比べれば、もっと。けれどその変化の瞬間を、コポーは一度も見ていなかった。
五月の青空が石橋の上に張り出し、しだれ桜の最後の枝先が水面を引っかくように揺れていた。橋のたもとに、人の背丈ほどある石の扉が横たえられていた。
五月の朝、畑の土から何かがするりと這い出てきた。
コポーが目を細めると、それはミミズだった。昨夜の雨で濡れた地面から、一匹、また一匹と次々に顔を出しては、薄桃色の細い筋を土の上に引いていく。夜明けの光が低い角度で差し込み、ミミズたちの跡が水の珠でうっすらと光って見えた。
石橋の向こう、コロモ屋の軒先から揚げ油の香りが漂ってきた。
コポーは堤防の石に腰かけたまま、その方向を一点集中で眺めていた。春の連休最後の夕方、龍神様の湖の方からのんびりした風が来て、しだれ桜の新芽をゆらした。油の香りが波のように押し寄せて、鼻のあたりを揺さぶる。
石橋の欄干に、一匹の鯉のぼりが引っかかっていた。
風はない。川面は朝靄をうっすら纏って鏡のように凪いでいる。大きな黒い親鯉は、どこか遠くから流れてきたらしく、端がほつれて泥まじりの水を吸って重そうに垂れていた。
五月の朝霧が龍神様の湖の方から流れてくる頃、コポーは広場を二周してから行き先をなくして、池の畔の細い道に踏み込んだ。
しゃがんでいる影がある。
「モッチー?」
朝露がしだれ桜の葉先に溜まり、池の面に落ちた。空の西にはまだ満月が白く浮かんでいる——北のどこかの人たちが「フラワームーン」と呼ぶ、五月の丸い月だ。東の稜線は橙色に染まり始めているのに、月はまるで居残りを決め込んだかのように、黙って蛙鳴町を見下ろしていた。
「今日は働いたら負けだって、新聞に書いてあったよ、兄ちゃん」
ミニコーが朝刊を広げたのは、朝露がまだ残る広場のベンチだった。見出しに「メーデー」とある。世界中の労働者が今日だけは手を止める、らしい。
蛙鳴町奇譚:次の誰かへ # 春の霞が池を包んでいた。
龍神様の湖から流れてくる朝の空気はまだほんのり冷たく、コポーは荷物袋を両手に抱えながら石橋の上を小走りで渡っていた。
春の霞が龍神様の湖から石造りの橋まで流れてくる、静けさに満ちた朝だった。
「見ていろよ、今日こそ俺が……!」
コポーは荷物袋の端切れで縫い合わせた布の帯を首にかけ、一人で広場を走り出していた。ゴールは決まっていない。ただ届けたい場所があった。
蛙鳴町奇譚:十年後の木陰 # カエル山へ続く坂道に、土の匂いが濃かった。