夜明け前の龍神様の湖は、まだ闇と朝の境目に沈んでいた。切り立った北壁が黒々と水面に影を落とし、湖はどこまでも静かに、そして底知れず広く見える。桟橋に舫われた小舟の綱を、ソンチョーが黙ってといていた。
夕暮れ時、石橋の欄干に西日が滲むように差し込んでいた。蛙鳴町を流れる川面は橙色に染まり、しだれ桜の葉が微かな水音に合わせて揺れている。
「見てくれよ、これ!」
秋の気配はまだ遠いのに、蛙鳴町の広場には妙な緊張感が漂っていた。
「今日は特別な記事を持ってきたぞ!」
ハッシーが翼をばたつかせながら、都会から運んできた新聞を石畳に広げる。義足で高く跳ぶ選手や、車椅子を巧みに操る選手たちの写真が、朝の光を受けて眩しく光っていた。
蛙鳴町の川面は、まだ夏の名残でぎらぎらと光っていた。石橋のたもとに立つハッシーは、片翼をそっと持ち上げ、目を細めている。
「……今日で終わりだな、この重たい熱は」
朝もやの残る蛙鳴町の駅前広場、龍神様の池から漂う仄かな水の匂いを乗せた風が吹き抜ける中、使われなくなった短い引き込み線の脇に、スパイスがしゃがみこんでいた。
夕暮れの池の畔、生ぬるい風がしだれ柳の葉先を揺らすと、水面上に小さな渦がいくつも生まれた。蚊柱だ。無数の羽虫が、誰に指図されるでもなく規則正しく渦を描いている。
夏本番の白い陽が差し込む前、蛙鳴町の空気はまだ夜の名残でひんやりとしていました。石橋のたもとに立つ小さな鐘楼で、ソンチョーが古びた綱をそっと握っています。
蛙鳴町の朝は、いつもより潮の匂いがした気がした。もちろん、この町に海はない。あるのは山の奥に横たわる、龍神様の湖だけだ。
「なんでみんな、行ったこともない場所を懐かしがれるんだろう」
梅雨の合間、橋の欄干に腰を落ち着けたハッシーが、くちばしで器用に都会の新聞をめくっていた。
「なあ、ケロミ」
しだれ桜の根元に座って野イチゴをつまんでいたケロミが顔を上げた。
龍神様の池が、六月の空を映して鈍く光っていた。梅雨の晴れ間に夕凪が来て、ハッシーが翼の骨をそっと確かめるように羽根を広げた。
「骨が痛む。でも、雨の予感じゃない」
梅の実が黄金色に膨らんだ頃、蛙鳴町の池の畔では宵が少しずつ遅くなっていた。
ハッシーが石造りの橋の欄干にとまったのは、龍神様の池の水面に橙の光が最後まで残っていた頃のことだった。左翼の付け根が、いつもとは違う種類で疼いている。翼の骨が「天気」を告げる時は鈍く重いが、今夜の痛みはもっと繊細な——何かを指し示すような疼きだった。
蛙鳴町奇譚:傘より深い場所 # 入梅の朝というものは、決まって匂いから始まる。龍神様の池の面が霞み、土が濡れる予感を孕んだ空気が、スパイスの工房の隙間から滲み込んでいた。
空がいつもより低かった。
ハッシーが木陰から顔を出した時、龍神様の湖は完全に凪いでいた。風のない日の水面は、何かを待っているような静けさを持つ。右の翼の骨が昨日からじくじくと痛んでいた。これは間違いなく来る、とハッシーは思った。
しだれ桜が水面に指先を浸す川沿いを、大きな風呂敷包みを背負った老人が一本の杖をつきながら歩いていた。踏切の警報機が不意に鳴り、遮断棒が降りた。老人は急がず、棒の前に立って空を見上げた。
しだれ桜の枝が川面に影を落とす午後、ハッシーが珍しく翼をたたんで石橋の欄干に降り立った。
「ソンチョー。今日で四十年だって」
桜餅を半分食べかけたソンチョーが、顔も上げずに「何がじゃ」と返した。
カエル山の中腹に、一か所だけ色の違う土がある。
コポーがそれを見つけたのは、前の晩のことだ。モッチーが「誰かに相談もできずに重たいものを背負ってる」と珍しく遠い目をしたのを見て、気づいたら山を登っていた。明けの明星もまだ空にある、まだ暗い時刻に。
夕暮れどきの池は、空の橙が水面に滲んで、じわりと赤みを帯びていた。
「ミニコー、それ、何が書いてあるの?」
コポーが草の上に転がりながら問うと、弟はていねいに新聞を折り直した。「長良川の鵜飼い、今夜から始まるって。篝火を焚いて、訓練した鵜に川の鮎を捕らせる漁法。千三百年続いてるんだよ」
蛙鳴町奇譚:いちばん長い帰り道 # 四月の朝は、池の面がきらきらと光って目を細めたくなるほど眩しかった。
蛙鳴町の広場は、朝から甘い香りに包まれていました。
4月8日。今日は「花まつり」。広場の中央には色とりどりの花で飾られた小さな堂「花御堂(はなみどう)」が置かれ、中には天と地を指差す誕生仏が鎮座しています。
蛙鳴町の駅前広場には、今朝、大きな白地図が広げられていました。
4月7日。今日は「日本一周を計画してみる日」。ミニコーは色鉛筆を握りしめ、自分たちを中心とした円を、地図の上に一生懸命描き込んでいました。