七月の強い陽射しが、駅の線路をゆらゆらと陽炎のように揺らしている。
うだるような熱気がホームを包む中、改札口に近い木製のベンチの周りだけは、不思議と澄んだ冷気に守られていた。ベンチの端で、白くまのキリガミネンが静かに立ち尽くしている。彼が白い息をすっと吐き出すたび、風鈴の音のように涼やかな風がホームを吹き抜けた。
七月の田んぼは、熱と泥と青い匂いに満ちていた。
「コポー、もう一束だ」
モッチーの声は、いつも命令より確認に近い。コポーは「う……」と唸りながら泥に踏み込み、早苗の束を受け取った。ズブリ、と足首まで沈んだ。思っていた以上に深かった。
六月の雨上がり。スパイスの工房からは、はんだの焦げ臭さと機械油の匂いが漏れていた。
コポーが扉を押し開けると、スパイスは緑の基盤に、細い彫刻針で数列を刻んでいるところだった。
春雨の上がった払暁、龍神様の祠の前に広がる石畳は、霧の奥でその目地を白く滲ませていた。
スパイスが機材を持ち出したのは、まだ夜の明けぬ前のことであった。工房から運び込んだレーザーキャリパーと自作のデータロガーを祠前の石畳に据え付け、彼は細い針を繰り返し落とし続けた。針の長さは一。目地の間隔は二。
蛙鳴町に梅雨の雫が滴る朝、スパイスは工房の窓を開けた途端、息を呑んだ。
ペーシャンが、記録の蔵の軒下で丸まっていた。いつものように。ただし、そのもちもちとした灰白色の肌に——茶褐色の斑点が、等間隔に並んでいた。大きな点と小さな点が交互に連なり、まるでどこかの学術誌に掲載された顕微鏡写真のように、整然と均整がとれている。
夏の匂いが滲み始めた広場に、スパイスが組み上げた即席の映写幕が青白く光っていた。
「ワールドカップ、グループステージ。アルゼンチンの試合だ」
スパイスは改造スピーカーの配線を直しながら、それだけ言った。配線が古い街灯にからまり、石畳からの反射光がスクリーンの端を照らしていた。
夕暮れが、来なかった。
午後七時を回っても、龍神様の湖は橙色の光の中に揺れ続けていた。コポーは湖畔の石に腰を下ろし、手のひらで水面を一度だけ叩いてから、また黙り込んだ。
梅雨の晴れ間の午後、踏切の警報機だけが静かな蛙鳴町を区切っていた。
「キリガミネン、また今日もここにいるんだね」
コポーが声をかけたのは、駅ホームの端に立つ白い大きな体へだった。キリガミネンは返事をしない。それがいつものことだと、コポーは知っている。
六月の白昼、蛙鳴町の石畳が金色の薄膜に覆われた。
広場の中央から渦を巻くように浮かび上がった文様は、踏みならされた石の継ぎ目を縫って外周へと広がり、まるで巻き貝の断面図を地面に刻み込んだかのようであった。誰かが気づいて声を上げる前に、その輝きは消えた。しかし広場の石畳の配置が微妙に変わったことに、スパイスだけは気づいた。
六月の雨が、広場の土をしとしとと黒く濡らしていた。
「ふっふっふ、今こそ俺の本領発揮だぜ」
コポーは、ミニコーが新聞から切り取ってきた白黒の写真をポケットにしまい、泥だらけの丸いボールを蹴り上げた。遠い大陸の緑の芝生で、蛙色のユニフォームが駆け回っているというそのニュースが、どこかコポーの血を沸かせていた。
蛙鳴町奇譚:傘より深い場所 # 入梅の朝というものは、決まって匂いから始まる。龍神様の池の面が霞み、土が濡れる予感を孕んだ空気が、スパイスの工房の隙間から滲み込んでいた。
龍神様の池の畔に、見慣れぬものが置かれていた。
木と銅板で組まれた段付きの箱。上の段から水が細い糸のように落ちて、下の段に溜まる。そこからまた次へ。溜まっては落ち、落ちては溜まる。
西の空が溶けるように暗くなっていくその縁で、二つの光が寄り添うように輝いていた。
「あれ、近くない?」
草原に腰を下ろしたコポーは、首をぐいと伸ばして空を指差した。青白い光と金色がかった光が、まるで肩と肩が触れるほどの距離で並んでいる。
梅雨が本気を出していた。
昨夜から降り続ける雨は朝になっても勢いを増すばかりで、石畳は薄い川のようになり、しだれ桜の枝先は重さに負けて地面を叩き続けていた。そんな中で、コポーは傘もなくオヒサマの家の前に立っていた。
龍神様の湖のほとりに、旅籠が出現したのは、六月の宵のことであった。
コポーが池の石に腰を下ろし、ぼんやりと夜霧を眺めていると、昨日まで何もなかった原っぱに、磨き込んだ木の看板と、黄色い格子窓が現れていた。看板には墨痕鮮やかに「無限旅籠 壱ノ間より」と刻まれ、その下に小さく「常時満室・常時空室」という矛盾した文言が並んでいた。
梅雨入りの前夜とは、いつもそのような夜であった。
龍神様の湖の水面が、いつになく黒々と光っていた。コポーが夕飯の後に石橋の欄干に肘をつきながら、それを見ていた。普段は月明かりを反射して白みがかる水が、今夜だけはまるで濡れた墨のように、光をことごとく飲み込んでいる。
蛙鳴町奇譚:虫と舌の休戦 # 朝のうちから、広場の石畳は青く湿っていた。梅雨の前夜の草の匂いが石畳の隙間に染み込んで、コポーの舌先がひとりでにピクりとした。
朝靄の中、龍神様の池の向こうから、焦げた匂いが漂ってきた。
広場のベンチで桜餅を食べていたソンチョーは、ゆっくり鼻を鳴らして立ち上がった。
「……コポーの方角じゃな」
蛙鳴町の夜は、湿った空気が池の面をゆっくりと揺らし、龍神様の祠の結界が遠い光に白く染まっていた。
「おかしい」
コポーは池のほとりにしゃがみ込み、夜空を見上げて首を傾げた。月は丸かった。間違いなく丸かった。ただ、いつもの満月と何かが違う。丸いのに、どこかこぢんまりとしている。大きな器を使っているのに水が少ないような、そんな物足りなさだ。田んぼのあぜ道から聞こえるカエルの声が、今夜はどこか遠慮がちだった。
龍神様の池のほとりは、朝から誰かの呼吸みたいな静けさに包まれていた。
コポーは竹ぼうきを抱えたまま、水面を見つめた。いつもなら空の青を映すはずが、今日は灰色がかった緑がそのまま沈んでいる。池の奥で睡蓮の葉が重そうに揺れ、遠い南の海で大きな渦が育っているのを、龍神様の水はもう知っているのかもしれない。