記録の蔵の奥、斜めに差し込む昼の光の中で、スパイスが棚の隅から取り出したのは、飴色に磨かれた小さな木箱でした。蓋を開けると、珠のひとつひとつが丸く艶を帯びた、古いそろばんが眠っています。
夏の日差しが龍神様の池に照り返し、白い光の粒があたり一面に散っていました。記録の蔵の裏手では、蜜蝋の甘い匂いがほんのり漂っています。
「……ダメだ。また潰しちまった」
蝉の声が一段と高くなる頃、駅前広場のしだれ桜は影を長く伸ばし始めていました。
「よし……あと少しで、三時だ」
コポーは、朝から手をつけていた特製の「たい焼き」をそっと日陰に隠しながら、額の汗を拭っていました。渡す相手は、もちろんオヒサマです。
夜明けの靄が龍神様の池を包み込み、水面から立ちのぼる匂いがかすかに苔と土を思わせた。
「見ろよミニコー、これぞ僕特製【虹色水鉄砲】だ! 太陽を反射させて七色の水柱を上げれば、町の女の子たちもきっと……」
夕方の蛙鳴町、駅のホームに置かれた古びた蓄音機が、傾きかけた西日を鈍く弾いていた。真鍮のラッパには、うっすらと埃が積もっている。
「壊さないでよね。記録の蔵から、ようやく借り出してきたんだから」
夕方の川風が、しだれ桜の葉を揺らしていた。橋のたもとで長い脚を持て余すように投げ出していたタッチーの前に、スパイスが黙って一枚の雑誌の切り抜きを差し出す。
夕暮れの蛙鳴町は、まだ日中の熱をたっぷり抱えたまま、蝉の声だけが名残惜しそうに響いていた。井戸端の湯気は夜風にほどけ、龍神様の池の匂いと混じり合う。
蛙鳴町の朝、龍神様の池の水面から陽炎がゆらゆらと立ちのぼっていた。蝉時雨が耳をふさぎたくなるほど降り注ぐ、一年で一番暑い日だ。
「くっ……この暑さでは、僕の決めポーズも台無しだ……」
朝靄が薄れていくにつれ、龍神様の池の水面に、小さな波紋がいくつも重なっていた。石を投げているのはコポーだ。ただし今日は的当てではなく、何かに苦戦している様子だった。
パパン、と乾いた音が鳴った。ソンチョーが打ち鳴らすのは講釈師の扇子ではなく、龍神様の祠から出た古い木片であったが、その調子はまさに一席の講談である。
さて、蛙鳴町にゃ外の道理じゃちょいと量れねえ話ってのが、ちょくちょくあるんでござんす。今宵はそのひとつ、龍神様の湖にまつわる「月渡り」の一席、しばしお付き合いのほどを。
夕暮れの蛙鳴町、川沿いに並んだ提灯にぽつりぽつりと灯がともり始めた。生ぬるい風がしだれ桜の葉を揺らし、池の水面に小さな波紋が幾つも広がっていく。遠くで鳴く蛙の声に混じって、太鼓の練習らしき音が風に乗って届いた。
夕暮れの生暖かい風が、スパイスの工房の開け放たれた窓から流れ込み、はんだ付けの煙を緩やかに揺らしている。
作業台の上には、都会の廃材置き場から拾ってきたという、くすんだ赤と金のプラスチックで作られた手のひら大の小箱が置かれていた。細いケーブルで繋がれた二つの平たいコントローラーが、まるで小動物の耳のように左右に伸びている。
夏の強い日差しが、蛙鳴町駅の古いトタン屋根を焦がしていた。 ホームのベンチでは、白くまのキリガミネンが静かに目を閉じ、その周囲だけ冷んやりとした川霧のような涼風が漂っている。
蒸し暑い夜、龍神様の池のほとりにスパイスの工房の灯りが揺れていた。真空管が桃色に息づく手製の無線機——「試作三号」——の準備が整うのを、コポーは油紙に包んだ台本を抱えて待っていた。
梅雨明けの蒸し暑い宵、龍神様の湖畔に、蛍とも違う淡い青緑の光が無数に瞬いていた。羽音はなく、風に流されることもない。住人たちはそれを「龍灯虫(りゅうとうむし)」と呼び、夏の初めにだけ現れる不思議な光として、特に驚きもせず眺めていた。
梅雨明けの朝、龍神様の湖の浅瀬に、一本の喇叭(らっぱ)が逆さに突き立っていた。朝顔のように大きく口を開き、細くなる胴は水底のさらに奥へと、目で追えぬほど遠くまで伸び細っている。誰が置いたわけでもないのに、住人たちはそれを、昔からそこに在ったものとして受け入れていた。
夏の陽射しが川面に反射し、石造りの橋の欄干にキラキラと光の網を投げかけている。むっとするような草いきれの中に、川底から立ち上る冷たい水の匂いが混ざり合っていた。
カエル山の中腹から吹き下ろす山風が、青々と茂る草むらを波のように揺らしている。夏の陽射しを浴びて、湿った土と青葉の匂いが混ざり合い、むっと立ち上っていた。
夏の朝の、青々と茂るしだれ桜の葉が、龍神様の川面へひんやりとした影を落としていた。七月の強い日差しは水面で跳ね返り、石橋の古い欄干をまぶしく照らしている。