朝の駅前広場に、乾いた土の匂いが立ちのぼっていました。コポーは拾ったばかりの毬——龍神様の祭りで使われる、藁を編んで作った古い手毬——を握りしめ、力いっぱい振りかぶります。
蝉の声が一段と高くなる頃、駅前広場のしだれ桜は影を長く伸ばし始めていました。
「よし……あと少しで、三時だ」
コポーは、朝から手をつけていた特製の「たい焼き」をそっと日陰に隠しながら、額の汗を拭っていました。渡す相手は、もちろんオヒサマです。
夕方の蛙鳴町、駅のホームに置かれた古びた蓄音機が、傾きかけた西日を鈍く弾いていた。真鍮のラッパには、うっすらと埃が積もっている。
「壊さないでよね。記録の蔵から、ようやく借り出してきたんだから」
蝉時雨がわんわんと降り注ぐ龍神様の池のほとりの草原に、コポーは仁王立ちしていた。目には気合の入った赤い布――目隠しだ。
「よし、絶対にキメてやる。かっこよく一発で……!」
夏の龍神様の湖は、今夜だけ人間くさい賑わいに包まれていた。……とはいえ、蛙鳴町の花火は都会のそれとは違う。「大きな音は湖の主を驚かせる」という言い伝えのせいで、打ち上げられる花火はたったの三発。控えめすぎる号数に、毎年誰かがぼやくのが恒例だった。浴衣の裾に混じる金魚すくいの水の匂いと、遠くの太鼓の振動だけが、やけにリアルタイムで夏を伝えてくる。
龍神様の湖の最奥、切り立った岩肌は昔から「北壁」と呼ばれ、代々の力自慢の男衆だけが挑む修行の場とされてきた。誰も気にも留めない、ただの古い言い伝えのはずだった。
駅のホームのベンチには、陽炎の向こう側で、白く冷たい塊が静かに佇んでいた。
キリガミネンがそこに座っているだけで、通り抜ける風がほんのりと雪解けの匂いを帯びる。
駅前広場に立て架けられた青竹が、さらさらと乾いた音を立てて揺れている。
昼下がりの熱気がアスファルトから立ち上る中、改札口の周りだけは、切り取られたようにひんやりとした空気が満ちていた。ベンチの端で、白くまのキリガミネンが静かに佇んでいる。彼がそっと息を吐き出すたび、駅舎の軒下を涼しい風が通り抜けていく。
梅雨が明けたばかりの蛙鳴町は、しだれ桜の川沿いが眩しいほどの青葉に覆われていた。水銀灯の下の空気は早くも夏の熱を帯び、龍神様の池からは涼やかな風が吹き抜けていく。
六月の夕暮れ、池のほとりに生えた柳の根元で、オヒサマは膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
水面にはぼんやり空が映り、橙と藍が混ざり合っている。一羽の鳥が遠くを横切り、それだけが動いた。
深夜零時を越えてもなお、広場の隅で古いテレビがぼんやりと青い光を放っていた。
スパイスが引いた延長コードが石畳を這い、緑の芝生を映す画面の前に三つの影が並んでいる。六月の夜気は湿り気を帯びて、龍神様の祠の方からカエルたちの鳴き声がリズムよく届いてくる。
梅の実が黄金色に膨らんだ頃、蛙鳴町の池の畔では宵が少しずつ遅くなっていた。
ハッシーが石造りの橋の欄干にとまったのは、龍神様の池の水面に橙の光が最後まで残っていた頃のことだった。左翼の付け根が、いつもとは違う種類で疼いている。翼の骨が「天気」を告げる時は鈍く重いが、今夜の痛みはもっと繊細な——何かを指し示すような疼きだった。
蛙鳴町奇譚:待合室のフレーム # 駅のホームに、六月の湿った風が滑り込んでいた。
梅雨が本気を出していた。
昨夜から降り続ける雨は朝になっても勢いを増すばかりで、石畳は薄い川のようになり、しだれ桜の枝先は重さに負けて地面を叩き続けていた。そんな中で、コポーは傘もなくオヒサマの家の前に立っていた。
ビワの実が熟れはじめる、初夏の午後。コポーは石橋のたもとで、白紙のノートの前に座り込んでいた。
「……書けない」
三度目の書き出しを消した跡が、紙をうっすら毛羽立たせている。今日が恋文の日だと気づいたのは、ミニコーが新聞を折りながら「五の二の三、こいぶみ、だって。兄ちゃん、読みやすいね」と呟いたからだった。
「べちゃ……」
五月の朝、池の端でコポーは折りかけた紙を一枚、静かに膝に落とした。空気が重い。梅雨の入り口を嗅ぎつけたような湿った南の風が龍神様の池を揺らし、岸の葦がやわらかくしなっている。
四月の午後、池の面が橙色に染まりはじめる時間になると、コポーは広場の隅で一個のオレンジを両手に抱えて立ち尽くしていた。
「渡すだけだ。ただ渡す。それだけだ。それだけなんだ……」
蛙鳴町の駅前広場。コポーは、エンジニアのスパイスが都会から取り寄せたという、最新の「感情翻訳バッジ」を胸につけて震えていました。
「スパイス、これをつければ……僕が女の子の前でモジモジしていても、僕の『真のカッコよさ』が自動的に翻訳されて伝わるんだな?」 「……理論上はな。対象の脳波と心拍数を解析し、最も適切な言語に変換してスピーカーから出力する。君の空回りするフラストレーションも、これで解消されるはずだ」
三月十四日。コポーは朝から計算していた。
「バレンタインにもらった分の、ちょうどいいお返しって何だ……」
スパイスが「3.14……円周率だ。割り切れない数字だ」と無表情に言った。
龍神様の池の畔に、オヒサマの雛壇が静かに広がっていた。
七段の朱塗りの棚、金屏風に寄りかかったお内裏様とお雛様。桃の枝を飾った花瓶の横で、オヒサマが竹ぼうきで花びら一枚を払いながら眉をひそめた。