夜更けの工房には、スパイスの古い端末だけが青白く光っていた。画面の隅で、数字がひとつ増えるたびに小さく明滅する。
「256……あと少しだ」 スパイスは呟きながら、記録の蔵から借りてきた古いプログラムを打ち込み続けていた。町の水位や龍神様の湖の水温を、毎日淡々と記録し続ける仕掛けだ。
陽が落ちきる少し前、龍神様の池の水面はまだ薄紅色を映していた。引き込み線の錆びたレールの上に、スパイスが小さな木の台をこつこつと据えている。指先ほどの折り紙——先端を丸くすぼめただけの、不格好な「ロケット」だ。輪ゴムの反動だけで飛ばす仕掛けらしい。
駅前広場のはずれに、緑色の公衆電話ボックスが一つ立っている。塗装はところどころ剥げ、硬貨の投入口には「十銭」と古い字で刻まれていた。都会の電話線とは、もうつながっていない。それでも、町の中でだけは、なぜか今も呼び出し音が鳴る。
朝からの風が、しだれ桜の枝を落ち着きなく鳴らしていた。川沿いの草はいっせいに同じ向きへ倒れ、空の高いところを、ちぎれた雲が足早に流れていく。
橋の下で、スパイスが石造りの樋(とい)に半身を突っ込んでいた。夏のあいだに溜まった枯れ葉と泥を、細い熊手で少しずつかき出している。
橋のたもとの小さな花壇で、ビピクは白い真綿をそっと持ち上げた。夜のうちに一輪の菊へ被せておいた綿を、朝いちばんに取り上げるのだと、前の晩から決めていた。
まだ人気のない駅のホームの端、時刻表の柱の下で、マスクメンは藁半紙を石畳に広げていた。手には短い鉛筆。
「せ、正義のヒーロー心得、その一……」
覆面の目の穴から覗く視線が、紙の上をぎこちなく這う。書いては止まり、書いては指先で押さえて直す。「正」の字の、最初の一本の横棒が、どうしても右へ反り返ってしまう。何度なぞっても匕首みたいに曲がる。徹夜で書き上げた十箇条を清書しようというのに、一文字目から情けなかった。
まだ空が青黒く沈んでいる頃、コポーは川原の草の上に大の字に倒れていた。何百回目かの宙返りの、着地に失敗した恰好のまま、しばらく動けずにいる。
顔にかかった草の葉先が、いつもの生ぬるい夏の湿り気とは違う、ひやりとした重みを持っていた。指で触れると、葉先に小さな粒がいくつも並んでいる。今朝の露は、心なしか白く光って見えた。
朝のうちだけ、九月の池は鏡のように静まる。金木犀にはまだ早く、風は葉裏の匂いだけを運んでいた。
その静けさを裂くように、スパイスが都会から届いた小箱を工房の机に広げた。中には手のひらほどの布が一枚。
朝靄の残る記録の蔵で、ミニコーが古い新聞の束をめくっていた。埃っぽい紙の匂いに混じって、開け放した窓からは金木犀の気配がまだ早い風に乗ってくる。
朝のホームに、細い櫛の音が鳴っていた。
オヒサマが、飴色になったつげの櫛を片手に、線路のほうを見ないふりで立っている。使い込まれて歯の丸くなったその櫛は、祖母がそのまた祖母から受け継いだものだという。
朝の工房の前に、スパイスが小さな鉄の箱を据えていた。側面のハンドルを回すと、下の型から透きとおったグミがぽとり、ぽとりと落ちてくる。どれも同じ大きさ、同じ角度、同じ琥珀色。石畳に並べると、宝石を敷きつめたように光った。
駅前の掲示板に、都会の売り場が配ったという古い当選番号表が一枚、画鋲で留められていた。朝の風で端がめくれ、細かい数字の列がさらさらと震えている。掲示板の下では、乾いた銀杏の葉が一枚、石畳の上を音もなく滑っていった。
古い踏切の警報機が、朝から二度、三度と鳴っては止んだ。電車が来たわけではない。稲の匂いを含んだ強い風が信号の腕木を揺らして、勝手に鳴らしているのだ。駅前広場の石畳の上を、乾いた砂がさらさらと横に流れていく。
川沿いのしだれ桜は、いつのまにか葉を厚くして、夕方の風にかさかさと鳴っていた。ヒグラシの声が少し遠くなって、駅前広場の石畳には、もう秋の匂いがうっすらと混じっている。
夜明け前の龍神様の湖は、まだ闇と朝の境目に沈んでいた。切り立った北壁が黒々と水面に影を落とし、湖はどこまでも静かに、そして底知れず広く見える。桟橋に舫われた小舟の綱を、ソンチョーが黙ってといていた。
広場の隅、石を組んだかまどから立ちのぼる煙が、藍色に暮れかけた空へ細く溶けていく。網の上で弾ける油の音に混じって、炭のはぜる匂いが鼻先をくすぐった。
蛙鳴町の記録の蔵の前に、埃をかぶったブラウン管のテレビが運び込まれた朝だった。八月の終わりの日差しは幾分和らぎ、蔵の壁を伝う蔦の葉が乾いた音を立てていた。
蛙鳴町の駅前広場に、真新しい風呂敷包みがひとつ、行儀よく置かれていた。夕暮れ前の噴水が朝より控えめな水音を立て、しだれ桜の影が長く伸びている。
夕暮れ時、石橋の欄干に西日が滲むように差し込んでいた。蛙鳴町を流れる川面は橙色に染まり、しだれ桜の葉が微かな水音に合わせて揺れている。
「見てくれよ、これ!」
夕暮れの駅前広場に、スパイスの新作――小さなヤカンからほんの一瞬で白い湯気が立ちのぼる「瞬間湯沸かし器」が据えられていた。
「モデルの仕事、あと五分で撮影が始まるのに……」