朝霧がまだ薄く川面に残るころ、蛙鳴町の石橋には、いつもより多くの人影が集まっていました。年に一度、欄干に刻まれた龍神様の彫刻を洗い清める「橋洗い」の日です。
「見ろよ、この足の長さ。橋を渡るなら、これくらい優雅にキメないとな」
タッチーが橋のたもとで長い脚を高々と上げ、決めポーズを取っていました。実のところ右の靴の中には、昨夜こっそり削り直した自作の中敷きが入っています。左右で微妙に違う靴のサイズを、誰にも気づかれないよう毎晩調整してきた成果でした。
「タッチー、水がこぼれるよ」
ペーシャンが、土の匂いのする大きな素焼きの壺を抱え、のっそりと近づいてきました。中身は冬の間ずっと地中で眠りながら蓄えてきた湧き水――龍神様の彫刻を洗うための、大切な一滴です。
橋のたもとでは、マスクメンが覆面の紐をきつく締め直していました。「本日、橋の入口警備を担当します」と声を張りますが、覆面の下の耳はすでに真っ赤です。橋を渡り始めたら決して振り返ってはいけない――授かったものが戻ってしまうという、龍神様との古い約束があるからです。
タッチーが橋に一歩を踏み出します。水面に映る自分の姿がやけに気になり、思わず振り返りかけたその時、ペーシャンの壺からぴちゃりと水がこぼれ、彼のつま先を濡らしました。
「……びっくりした」 「ごめん。でも、前だけ見てて。橋の向こうに、ちゃんと着くから」
ペーシャンの声はゆっくりと、けれど揺るがないものでした。マスクメンは何も言わず、ただ橋の入口で背筋を伸ばしています。
タッチーは濡れた足元を見ずに、まっすぐ前を向いて歩き出しました。洗われたばかりの龍神様の彫刻が、朝日を弾いて静かに光っていました。
余白: その夜、タッチーの靴の中敷きは、いつもよりほんの少しだけ湿っていた。
【本日の雫】
- 橋の日: 8月4日は「は(8)し(4)」の語呂合わせにちなむ記念日。