梅雨入りの前夜とは、いつもそのような夜であった。
龍神様の湖の水面が、いつになく黒々と光っていた。コポーが夕飯の後に石橋の欄干に肘をつきながら、それを見ていた。普段は月明かりを反射して白みがかる水が、今夜だけはまるで濡れた墨のように、光をことごとく飲み込んでいる。
「……変だな」
呟いた瞬間、湖の奥から——紫の霧が湧き出た。
霧と呼ぶには余りに濃く、煙と呼ぶには余りに柔らかい。それは生き物の息吹のように、波紋もなく静かに広がり、しだれ桜の枝をくぐり、石畳の上を這い、町全体を低く覆い始めた。そして霧の中から、それは姿を現した。
長さ二十尋はあろうかという巨大な体躯。ぬめりと光る紫斑の皮膚。波のようにゆるりと揺れる背鰭。アメフラシであった——無論、この世のものとは思われぬほど巨大な、その化け物が。
コポーは逃げなかった。逃げる間もなかったのではなく、何故か足が動かなかった。
「慌てるな、小倅」
背後からソンチョーの声がした。老爺はいつの間にかベンチに座っており、シルクハットを膝の上で静かに転がしていた。珍しく、フェっフェっという笑い声はなかった。
「あれが来ると、翌朝から雨が降る。何百年も前からそう決まっておる」
「……何ですかあれは」
「龍神様が湖の深みで溜め込んだ水の記憶が、一年に一度だけ体を持って浮かび上がる。それがあの形をしておるのじゃ」
アメフラシは石橋の下を静かにくぐり、霧を引き連れながら町の中心へ向かった。その体から滲み出る紫の液体が、夜気に触れるたびに霧へと変じた。バイオルミネセンスのような、冷たい光を帯びた霧が。
「なぜ……アメフラシの形なんですか」
コポーの問いに、ソンチョーは少し間を置いた。
「龍神様に聞いたことはない。わしには分からん」
その言葉の重さを、コポーはうまく受け取れなかった。受け取り方が、分からなかった。
夜が明けると、気象センサーの予報より一時間早く、雨が降り始めた。紫の霧は跡形もなく消え、アメフラシの姿もなかった。石橋の欄干だけが、うっすらと紫がかった水滴を残していた。コポーはそれを指先で触れた。冷たく、少し粘ついていた。そして何故か、悲しくはなかった。
「分かってよかったのか、分からないままの方がよかったのか」
誰に言うでもなく呟くと、雨が少し強くなった。
余白: スパイスが翌朝の湖水データを確認すると、紫色色素の数値が年に一度この日だけゼロを記録していた——それ以外の三百六十四日は、必ず微量が検出されていた。
【奇譚の核(しん)】
- 使用した固有現象:梅雨入り前夜、龍神様が一年分溜め込んだ「水の記憶」が巨大アメフラシとして体を持ち、紫の霧を纏いながら町を巡る
- 物語の隠されたテーマ:「なぜ」を問えない謎を前にして、ただ逃げなかったことだけが残る