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  1. 蛙鳴町(あめいちょう)奇譚/

はじめの一音

蛙鳴町奇譚:はじめの一音
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梅雨の空は、朝から鉛色に押しつぶされていた。池の面に細かい波紋が広がるのは、遠い空から届いた台風の余波か、それとも龍神様が深い眠りから寝返りをうったのかと、広場のベンチに腰かけたコポーは、ぼんやりと考えた。

「ん?」

池のほとりの石段に、背の低い影がひとつ、黙って座っていた。ミニコーだった。両手には何か細長いものを抱えており、それが竹製の縦笛であることに気づいたのは、コポーが近づいてからのことだった。

「……どうした、そんな眉間に皺寄せて」

「練習しようと思って」ミニコーは短く答えた。「今日、何の日か知ってる?」

コポーが首を傾げると、弟は少し顔を上げた。

「六月六日の六歳が、一番手習いの上達が早いんだって。だから今日、始めることにした」

コポーは何も言えなかった。六歳ではないし、どこで仕入れた知識かも分からない。それでも、弟が今日という日を選んで、この雨の重い朝に石段に座り込んだことの意味を、なんとなく感じた。

笛を口に当てたミニコーの頬が、真剣にふくらんだ。

出た音は、細く、かすれていた。

正直に言えば、カエルの遠吠えのほうがまだ音楽的だったかもしれない。しかし梅雨の湿った空気の中、その一音は池の水面に落ち、波紋のように広がった。

「うまいじゃないか」

横から声がして、コポーは振り返った。ケロミが濡れた石橋から歩いてきていた。傘もさかずに、雨粒が緑の頬を伝っていた。

「雨の日は、音がよく聴こえるよ。空が低いから、逃げ場がなくて、そのまま耳に届くの」

ミニコーは黙って、もう一度笛を吹いた。今度の音は少し太く、長く伸びた。雨音と混じって、それはもう音楽とも雑音とも区別のつかない何かになり、蛙鳴町の梅雨の空に消えていった。

コポーは、自分が今まで一度も「始めた日」を決めたことがないと、ぼんやり気づいた。いつでも途中からで、いつの間にか続けていて、いつの間にかやめていた。

弟の横顔は、笑っていなかった。ただ、ひどく真剣だった。

余白: その夜、コポーが自室で白紙のノートを開き、何かを書こうとした。翌朝、そのページには何も書かれていなかった——しかし、二ページ目が折れていた。

【本日の雫】

  • 楽器の日 / 三味線の日:「六歳の六月六日が手習いの開始に最適」という古くからの慣わし。全国楽器協会・東京邦楽器商協会がそれぞれ記念日として制定。
  • 台風ジャンミ:2026年6月上旬、日本列島を直撃。各地に大雨・土砂崩れをもたらし、80万人超が避難勧告を受けた。