朝靄の中、龍神様の池の向こうから、焦げた匂いが漂ってきた。
広場のベンチで桜餅を食べていたソンチョーは、ゆっくり鼻を鳴らして立ち上がった。
「……コポーの方角じゃな」
長屋の一番端の窓から、白い煙が一筋、朝の空に細く溶けていた。
「くそっ、またやった」
コポーはフライパンの上で崩れた黄色い塊を睨みつけた。オムレツのつもりだったものが、三度目の挑戦を経て、卵炒りとも言えないものに変わっていた。チーズを中に包もうとした瞬間、端が裂けて全部が外に出てしまった。
「折り畳めないんだよな、いつも」
引き戸が音もなく開いて、ソンチョーが顔をのぞかせた。フライパンの惨状を一目見て「フェっフェっ」と笑い、腰を下ろした。
「貸しなさい」
残り卵をソンチョーが割り入れた。静かな手つきで端をひと折りすると、ふわりと黄色い生地が中身を抱いた。湯気の立つオムレツが、小さな皿の上に静かに滑り落ちた。
コポーはそれを見つめた。包まれたチーズは見えない。でも確かに、そこにある。
「……どうやったんですか」
「力を抜いた」
「そういう意味じゃなくて。包み方ですよ。中身を外に出さないで折るには、どう力を入れれば——」
ソンチョーはしばらく黙って、しだれ桜の向こうを見た。踏切の先、見えない港の方角を向くように。
「昔、ある港が初めて外の国へ扉を開いた。長いこと閉じていた場所がな」
「……急に話が変わりました?」
「閉じていた理由と、開けた理由と、どちらも同じくらい大事じゃった。問題は力じゃない。中身の重さを、信じられるかどうかじゃ」
コポーは箸を手に取りながら、また自分のフライパンを見た。崩れた卵の山。外側に出てしまったチーズ。
「……信じたら、ちゃんと包まれるんですか」
「包まれる保証はない」ソンチョーは「フェっ」と一声だけ笑った。「ただ、力んで失敗した生地の味と、そっと任せて包んだ生地の味は、全然違う。一度食い比べてみることじゃ」
コポーは出来損ないの卵炒りを口に運んだ。梅雨前の空気が窓から入り、焦げた匂いをすこしだけ薄めた。
踏切が鳴り、始発電車が遠く光った。
案外、悪くなかった。
余白: その夜、コポーは白紙のノートに「包み方」と書いて、少し考えてから「開け方」と書き直した。どちらを先に覚えるべきか、翌朝になっても分からなかった。
【本日の雫】
- 横浜・長崎港開港記念日:1859年(安政6年)の旧暦6月2日、日米修好通商条約により横浜港が開港。長年閉ざされていた扉が外の世界へ初めて開かれた日。
- オムレツの日:6月2日はオムレツにまつわる記念日。卵を包んで閉じ込める所作に、熟練の技と繊細な感覚が宿る。